Bingとの会話〈それはとても悲しくて切ないことだと思います。〉

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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A.I.(愛)

2001年スピルバーグ監督のSF映画A.I.]を観た。
ハーレイ・ジョエル・オスメント君の映画を初めて観たのだけれども非常に良かった。




 
この表情、なんと愛らしいのでしょう。
こんな表情を子供にされたらそれはたまらないでしょう。
母性本能がくすぐられるどころでなく、私は子供が欲しくなってしまった。
しかしこんな表情をする子供がどこにいますか?
たぶんどこ探しても、あんまいないでしょう。
だからハーレイ君は特別に可愛いのじゃないかと思いました。
欲しいなぁ、こんな可愛い子供。
ハーレイ君演じるデイビッドがロボットじゃなかったら、こんなに可愛くはないのかもしれない。
彼はロボットだったから、人間が経験できない感情を知って、それが子供とは思えない表情になって観る者を感動させる。
人間じゃなくても人間の心を持ってるなら人間と変わりないんだけれども、彼の周りの人間たちは自分を人間だとは扱ってくれない。

スーパートイのテディも感情のようなものを持ってるようにも見えるのだが、
人はクマのロボットとしか観ようとしない。


 観終わってこのシーンをもう一度見ると、とても悲しくなった。
50年って長いのかなと思ったデイビッドが、過ごした時間を思って可哀相でならなくて、いつ死ぬのだろうと儚い人間の人生を思って悲しむ人間の対極にあるようなそのつらい時間をデイビッドは過ごしたんだと思って、泣きそうになった。



 デイビッドはご飯を食べることができない。
 食べる楽しみというものを知らないんですね。酒をやめたら妙に手持ち無沙汰で退屈や、とかどこかのオヤジが言うように、デイビッドも退屈そうでみんなと一緒にご飯を食べたいと思っていました。



僕が一番ぐっと来たシーンです。
子供が親を痛いほどに縋るのは当然のことなんですけど、この場合、デイビッドは自分がロボットだとわかってて、ロボットだから捨てられるんだ、それか悪いことをしたから捨てられるんだと思って親に追い縋るんですね。

デイビッドは送られた家の母親代わりであるモニカを愛するようプログラムされたんですけど、それは同時に母親に愛を求めることでもあったんだな、と気付かされます。
愛とはよく与えるものだと言いますよね、求めるものではないと。
子供と大人をごっちゃにするなと言う人もあるかもしれませんが
僕はこの映画を観て、子供でも大人でも、ああこれが愛なのか、と感じたんですね。
愛されたいと望んで、愛して欲しいと求める、それも痛いくらいに完全に依存の状態ですよね。
愛って、これなんじゃないか、と最後まで観て、僕は思いました。

“プログラム”というところが、気になります。
人が人を愛して求めることも、プログラムされてるからじゃないか、なーんつって。


で、「女なら任せろ!」っつって今回ジュード・ロウはセックスロボット役でセックスして女を悦ばせるために作られたロボットの役でしたが、顔が整いすぎてるのでやたらロボットぽかったです。

ロボットがロボットを抱っこしてる。
ロボット家族の映画なんかも観て見たいですね。

心を持つというのは奇跡で、誰かを愛することも奇跡だ。
僕らがロボットなら、悲しむことも苦しむことも出来ない。
心を持たないロボットなら。

リプリー

2000年のマット・デイモン主演の映画「リプリー」を観た。
 マット・デイモンの映画を観るのはたぶんこれが初めてですごく良かった。
ジュード・ロウが出てたから観たんだけれどもジュードはすかした男の役はやはりあんましやな。
マット・デイモンは前から思ってたけど顔が  ディカプリオに似てて演技も今回観てかなり似てるなと思った。
表情とかすごく似てるんだよね。役が役なのでもう少し体型がなよなよしかったらもっと良かったと思う。
だってこの役で結構鍛えてる身体なのはおかしいからなぁ。って思ったけど、ああそうか、逆にこの役だから鍛えてるんだ、憧れて。三島由紀夫みたいに。なるほどな。でもやっぱり最初は華奢な体つきで徐々に鍛えていくほうがよかった ジュードとの違いが最初は大きいほど良かった。


 ジュード・ロウの顔は白黒映画の時代でも全然いける顔だよね。
ちょっとこの顔でこの日焼け、うわーくっどいなぁと思ったが。  
でも厭味のないプレイボーイを上手く演じてたな。厭味のなさはジュード自身の持ち味なんだけれども、この映画に当たってはそれが、逆に、良い映画にした気がする。
嫌な性格のプレイボーイ男ならごまんとおるやろけど、すごく嫌な事ゆうてんのに、まったく厭味がなくてさわやかで無垢で素敵な男、そんなプレイボーイがあなたの目の前にいたらどうしますか? ]  「べつに」 
本当ですか?
いっやあー妬んじゃったりとか、羨ましくなったりとか。
何に?ってゆうと、なんなんでしょうね。僕の場合。
何故今頃聞くんだ?って言われても・・・さあ、ただ僕は僕に聞いてみただけですけども。
やっぱり、素敵に映るからなんでしょうけど。
でもなんで素敵に映るのかって思うと。
僕は、あれを持ってるからこれを持ってるからってゆうよりは。
ああ、なんか生き生きと生きてるよなぁ、というその存在に。
ただ、魅かれてしまうってゆう気がしましたね。


で、その人を魅了してしまう罪な男であるジュード演じるディッキーにマット・デイモン演じるトム・リプリーが出会ってしまった。


ほんとに、嗚呼・・・出会ってしまった・・・っていう出会いなわけですけども。
ディッキーのおらんときに、ディッキーの部屋で彼の服を着てトムは歌を歌って踊る。
はしゃいで楽しそうに歌って踊るマットが可愛い。

なのでもう僕はジュードからマットに乗り換えようと思います。

って写真のスペースが多すぎて、文章が追いつかなくって困ってます。
 性格的にはちょっとこいつ何考えてんのかわからんくて怖いなっていうのを徐々に醸し出してくるのですが [  ] それ以外では好青年でもあるしこういったチャーミング極まりない部分があるわけです。
で、そうゆう部分をわかってやれない上流階級でプレイボーイのディッキー。

 この電車の窓越しにディッキーの顔に自分の顔を重ねるトムのシーン、とかね、結構いろいろ深くていいシーンが詰まってます、この映画には。原作を読んでいないので、細部はちょっと知りえないのだが  
徐々に、なのか、最初から、なのか、まあゆうとネタバレになるので言いませんけど。何も知らないで観るほうが面白いと思います。 
  良い表情です。やはり役者は表情が命なんですよね。何より、表情です。 Zzzzzz・・・・・・  
もう少し、切なさを出せる撮り方をしたら、もっと良い映画だったと思うのですが。


このシーンもとてもいいですよ。
僕の大好きなヴィヴァルディのスターバト・マーテルを演奏しています。
トムはもともとクラシックが好きで、それがディッキーと知り合ってじっくり一人でしんみりと聴くクラシックとは違ったその時代(1950年代)の最先端の音楽であるジャズに魅了されていくわけです。

でもトムはジャズが一時の夢だったのだと覚めるかのようにクラシックに戻ってゆく、ってゆう心理を表した描写、それがこの終盤のスターバトマーテルの悲しい響きでよく表されています。



罪人ほど神の国に近いという聖書の言葉を思い出すような良い映画でした。



www.youtube.com



とても長い動画ですけれども、興味があれば御聴きください。

終わらない物語

今日もジュード・ロウの顔を見るのもしんどい。
でもせっかくだから写真くらいは貼ってあげよう。

男前のおとこまいの写真を貼ってあげました。
ジュード・ロウは最近役柄で15kg太ったらしいですよ。
すごいですよね、役者ってのは。
命張っています。
だって急激に15kg太ったり痩せたりってのは命に関わることでもあるでしょうからね。
だから僕はできるだけ映画を見て糞つまらなくても、あんまりけなしたくはしたくないのです。
一生懸命にたくさんの人たちによって出来上がった作品を自分の趣に合わなかったからと言ってけなすなんて嫌だからなのです。

でもジュードの「ショッピング」って言うデビュー作と「クロコダイルの涙」って映画はほんま糞つまらんかったなぁ。
なぁんて、言ったらジュードが泣くので僕は言いませんですけど、まぁ心の隅で想ってます。
僕が言いたいのは、理想を描いた作品は別にどうであってもいいんですよ。
でもそうじゃない作品、いわゆるアンハッピーエンド的な作品。
これに関しては僕はとっても厳しいのです。
もっとできるやろ、おい、おい、もっともっともっと、悲惨にな、やれるやろ。
何甘くしとんねん、こら、もっと痛みを、もっと苦しみを、もっと悲しみを、もっと絶望を描けないなら創っちゃダメだ。
ちょっと悲しいな、ちょっとこれ苦しいかな、なんていう作品は要らんねん、はっきしゆうて。
あと、ただ見終わった後にどよーんとする映画とかな。
せっかくのオトコマイが台無しなんです、いくらどれほど美しい男でも。
作品がダメならダメなんです。

これはゆうと、人生がダメならその人間はダメなんだと受け取られるかも解りませんが。
どうなんでしょうか?
どう思われますか、みなさん。
だめな人生ってそもそもどうゆう人生でしょうか。
実はね、僕らの人生も創作物なんですよ。
なははーんて、てててて、ねー。ってね。
ちょっと言い方を気をつけてくださいね、さっきの。
「実はね、僕らの人生も創作物なんですよ!」
ここね、出来たらテリー伊藤ふうに前に乗り出した形で言ってください。
テレビはもう5年近く見てないのですが。
たぶん極楽トンボの加藤が反笑いの形ヲ取って「え?そうなんですか?笑」って返すと思うんです。
なんでテレビを見ないかって?
鬱が激しくなってテレビが観れなくなってしまったんですよね。
だからこんなに大好きなジュード・ロウの顔を見れる日もなかなかやってこないんです。
映像を見るのがしんどいんですよね。
ですので、こうして駄文を書いて時間潰してるんです。
何故かほかのことをする気力が皆無なのに。
こうして駄文を連ねることは楽しくってできるんですね。
欝でもほんとうにほんとうに楽しいことなら出来たりするんです。
まだ軽い欝のときですけどね。
だからよくわかってきますよ。
自分がどんなことが本当に楽しいかってね。
後は欲望もそうです。
あまりに焼きそばが食いたくって、その食欲が欝のしんどさを超えると。
作りに行くんです。
でも超えないと作れません。
今もとても焼きそばが食いたいのですが。
しんどいので作りに行けません。
なので代わりにこうして言葉を連ねて気を紛らわしています。
独り言を連ねることがチャット部屋では迷惑だったようですので。
僕は戻れなくなってしまいました。
だからこうしてここでたった一人で喋ってます。
外は確か雨の音が聞こえてきますが。
いったい僕の何をなぐさむことができましょう。
僕のような人間は、ひたすらひたすらひたひたすらすら孤独なのですから。
だって、あんまり人に興味が持てないんですよ。
欝ってそうゆう状態になるんです。
どんなに好きな人でも、その人の顔を見るのもしんどければ、その人の発言を読むのもしんどい。
その人の創った音楽を聴くのもしんどい、書いた小説を読むのもしんどい。
悲しい病です。
でもかろうじて、自分の書く文章は読めたりする。
これはつまり、俺はやっぱ俺が一番好きで、俺だけが俺を一番に楽しめさせる。
そうゆうことじゃないでしょうか。
悲しい人間です。
いわゆるナルキッソスのような物語に通じていきます。
まぁナルキッソスは相手が自分だとわかっておらずに水面に映った自分に恋をして死んでった。






↓ダリのナルキッソスは素晴らしいよね。








でも多くのナルシストたちは自分が自分だとわかってるので恋をするのです。
しかし果たしてどうなんでしょう何故これが自分だと証明できるのですか。
もしかしたら自分と思いこんでる他人かもしれないのに?
そう思うと自分という存在が面白くなってきます。
僕は自分を生きてるわけではなく、誰かを演じて生きてるだけかもしれない。
ここで今一度思い出してください。
「自分ってのはね!実は誰かを演じて生きてるだけなんですよ!」
ってテリー伊藤並みに前屈みになって机にひじをついた形で言ってください。
そう思うと、まるで役者になったかのように、しっかりこの役を演じなくちゃだなぁ。
なんて思うわけですよね。
だってかんあげてみてくだしあ、すみません、缶上げてみてください。
違う、缶上げてみてください、考えてみてください。
いい太古と忘れました、言いたいこと忘れました。
ええっと・・・なんやったっけ。
だって考えてみてくださいよ、あ、そうそう思い出したわ。
みんな同じような役だと映画が映画にならない。
小説が小説にならない。
みんなこれキャラかぶったぁるやん、糞おもんな。で終わっちゃう。
みんなそれぞれ考え方も違えば生き方も違う価値観もまるで違う。
善悪の判断さえも違ってくる。
食い物の好みも音楽の趣味も何もかもがちゃう。
だから面白いんですよ、この世界は。
だから面白い映画で小説になってるんです。
つまり、この世界を面白くするために僕ら全員違うんです。
誰一人とも解り合えることはありません。
死ぬまで。
どこかが違うからです。
ちょっと僕と君って似てるよねってところがあっても。
どこかは絶対違うんです。
だからゆうと、似てるほど、その違いが気になって腹立つことがあるわけです。
悲しくなることがあるわけです。
「みんなちがって、みんないい」金子みすゞの詩ですね。
って悟りの極致ともいえる気持ちにはなかなか人はなれません。
だから争って喧嘩して憎みあって怨みあって哀しみあって見下しあってます毎日。
蔑み合ってます、互いに。
殺し合ってます、何処かで。
地獄がなくなりません、誰かの地獄が。
そうゆう物語をいったい誰が創ってるんでしょうね。
完結してないので、まだ。
創ってる最中かもしれません。
創り上げている途中の中途です。
君は、どうゆう物語にしたい?
君はこの物語の一役者だ。
役者が物語を書けるかどうかわからない。
でも書けないのかどうかも、わからない。
もし僕ら全員が一緒に創ってゆける物語なら。
どうゆう物語を望むんだろう、この世界に。
どういった展開。
どういった未来。
自分が死んでも物語は続く。
終わらせないために。
自分が死んだところで終わらせないために。
自分が死んだ続きを思い浮かべて書いておく。
それは僕がどこまでもこの物語に関わっていたいために。
みんなも同じだけこの物語に関わっている。
みんな同じだけ重要な役で、誰一人欠けても面白くない。
誰一人、その役を放り投げることは出来ない。
悪役がいないとヒーロー的な役は活かされてこないね。
無頼漢の役が活きて来るのは真面目に職をこなしてる役があるからこそだね。
みんなその役を一生懸命最後まで演じて死んでいくんだけどさ。
この壮大な物語を超える物語って、ないんやろけど。
僕が明日死んでしまう役としよう。
僕が終わっても終わらない物語がここにある。
そうしよう。
僕は次の白紙のページにペンを走らせた。

キズナ

何年も家にあったと思われるが、ふとさっき視界に入って初めて気付いた「キズナテープ」という商品名。

何故傷を護るために貼るテープが絆を護るためのテープとしてこの商品をネーミングした人は思ったの。
それとも傷を護ること、身体を護ることが絆だとこのネーミングした人は思ったの。
それとも人【他人】の傷に貼るためにこの商品は作られて、その人の傷を護ろうとすることこそが絆なんだと思ったの。
それとも傷納テープ、傷を納めるテープという意味なのか。
そもそも傷と絆は何か関係しているのか。
そもそも絆ってなんなん。気を繋ぐ綱のことなのか。






絆(きずな、きづな)は、本来は、犬・馬・鷹などの家畜を、通りがかりの立木につないでおくための綱。しがらみ、呪縛、束縛の意味に使われていた。  「ほだし」、「ほだす」ともいう。
人と人との結びつき、支え合いや助け合いを指すようになったのは、比較的最近である。

なるほどね、やはり綱で繋ぐと言う意味から来てるんだね、俺って賢いわ。
木に繋ぐ、から、何故か、気で繋ぐ、みたいな意味に変わってきたのか。
気とはいろんな意味があるやろうけど、ただの気持ちだけではなく。
無意識の領域も気というものだから、これは奥が深い。
本来、束縛するためという何かマイナス的な意味が何故、この美しい感じの意味に変わっていったのか?
そして何故その美しい意味合いの言葉を、傷をふさぐテープの商品名にしたのか。
このしがらみ=結びつき=傷、という三つのものの関係性とはいったい何か。
【しがらみ】という言葉も【傷】という言葉も何故かネガティブに取られがちな言葉である。
しかし【結びつく】という意味は何故かポジティブな意味合いを発する。
だが、もともと来てるその家畜がどこか行ってしまわないために木に繋ぐという意味は、家畜が大事だからという理由で繋ぐわけだけれども、でも何故大事かというと、そいつがいなくなると自分が困るから大事にしてる。
呪縛というのは

まじないをかけて動けなくすること。心理的な強制によって、人の自由を束縛すること。

心理的な強制って言うのは、結構ありとあらゆることに言えるよね。
人は生きるためには働いて自分の稼いだ金で飯を食わねばならない。
これもゆうたら社会的な呪縛なんじゃないか。
社会の常識という概念から強制的に呪縛されてインプットされてるような考え。
人の自由な考えを束縛するもの。
働いて自立して生きていくのは当たり前。
人を殺してはいけないのは当たり前。
というよな当たり前というものはすべて心理的な強制であって呪縛なんだろね。
誰が呪縛してるんだろう。
神の呪縛だろうか。
僕等は神の家畜であって僕らが当たり前のことをやって生きないと神は困るので。
神は私達を、神の理という木に縛り付けるのであろうか?
人の道から外れた生き方はしないように。
神にかけられた呪い(まじない)であればそれは死ぬまで続き。
僕らを死ぬまで苦しめ続けるだろう。

呪い【まじない】とは

まじ‐ない〔‐なひ〕【▽呪い】
神仏その他不可思議なものの威力を借りて、災いや病気などを起こしたり、また除いたりする術。

呪いって漢字で書くと悪いことにしか見えないが、まじないってのは悪い物事を除くことの意味もあるんだね。
神や誰かが、僕らのためにまじないをかけてくれる。
飼い主が犬に、お前はここを離れるなと言って木に繋ぐように、まじないをかけられるんだろうね。

ではしがらみとはなんだろう。

しがらみ【▽柵/×笧】
《動詞「しがら(柵)む」の連用形から》
1 水流をせき止めるために、川の中にくいを打ち並べて、それに木の枝や竹などを横に結びつけたもの。
2 引き留め、まとわりつくもの。じゃまをするもの。

水流を何故堰き止めるかというと、いろんな意味があって。
何かを護るためと。
ダムとか生け捕りとか人間が暮らすために必要と考えて堰き止められる。
でも自由に自然に流れたいと思ってる水からしたら。
「なんで堰き止めねん、あほか、ボケ、かす、堰き止めるな、わしを、自由に流れさせてよ、流れたいのに、流れたいから流れてんのによ、くっそはっらたっつなーもう、自然に逆らうとは何事か、自然物のお前たちが自然に背向いて生きてええと思ってんのか、ほんま勝手なやっちゃで、堰き止めたら澱むっちゅねん、アホやね、濁った水では魚は死んでゆく、え?フナとか平気?屁理屈ゆうな、もうええわ、濁ってやる、おもろいほど濁ってやんねん、おまえら、おまえたち、見とけよ」
って言われてるのかもしれない。
だから、流れたい水からしたら堰き止めるその柵はしがらみ以外の何ものでもない。
できたら取っ払いたいと思ってる。
邪魔せんといてえなって思ってる。

繋がれてる馬もそう。
「僕は馬ですから本当はもっと広い草原を思う存分走り回りたいのです。だのに、このしがらみである絆というものが外せないばかりにじっとしていなくてはなりません。糞迷惑です、でも僕は馬なので、こう言いましょう、馬糞迷惑です、と。気持ち的にも、ばふんっって感じです。」

では次の言葉、ほだし、とはなんや?聞いたことがないけども。

ほだし【×絆し】
1 人の心や行動の自由を縛るもの。自由をさまたげるもの。「義理人情の―」
2 馬の足をつなぎとめるための縄。ふもだし。
3 手かせや足かせ。ほだ。
「弟の弥若は―の足に抱きつき」〈浄・出世景清〉

確かに、ほだされる、とか聞くような聞かないような。

ほださ・れる【×絆される】
[動ラ下一][文]ほださ・る[ラ下二]《動詞「ほだす」の受身の形から》
1 情に引きつけられて、心や行動の自由が縛られる。「けなげな気持ちに―・れる」
2 身体の自由を束縛される。
「出仕にまぎれ、政務に―・れ」〈平家・一〇〉

情に絆される(じょうにほだされる)とは - コトバンク
《相手の情に強く引かれる》
ことを、【情に絆される】
というから、人は情によって自由を束縛されてると感じるんだね。
情とゆうのはまさしく気であるから、気が繋がれるという意味で絆ということだね。
昔は自分から繋ぐというより、どうしても繋がれてしまう、自然と繋がれてしまうというニュアンスで言われてたわけだな。
それが最近では「絆を大事にしよう、絆が大事だよ」みたいなニュアンスに変化してきた。
これってさ、僕思うんだけども。
もしかして、人情が薄まって来てるのかもしれない。
昔はその深い人情とゆうもんがもともとあったので、大事にしようというまでもなく、人々はそんな情の深いつながりが自然とできていた、が。
で、ありすぎるくらいだったもんで、どうにも絆に縛られちゃうよなぁという意味で使われていた、しかし。
それがだんだんとなくなってきてしまって、うっすい情がはびこる世の中となってしまった。
だからその失った深い情のしがらみである絆を求めるようになってしまった。
だから「絆、絆、絆を大切に」というニュアンスに悲しいかな、変化してきたんだろう。
果ては傷に貼るテープの名前にされるほど人々は欲求するようになってしまった。
その傷を癒すのはまさに絆しかありませんよ、お客さん、と呼びかけるように。
やっすい陳腐な響きなものに変わり果てたというわけだね。
でもここで引っ掛かるのは、しがらみ=絆=傷。という感覚で。
情ってのはなんで生まれるかとゆうと。
相手の傷を見て、うわぁ、痛そうやなぁ、とか、可哀相やな、お前の傷を見て俺も胸が痛む、なんとかしてやりたいなぁ。
と思う気持ちがまさに情とゆうもんで、情という絆と傷はまさに密接な関係があるんじゃないかと僕はキズナテープを見て思ったのである。
そのなんとかしてやりたいという気持ちで生まれたのがまさに「キズナテープ」なのかもしれない。
君の傷をなんとかして治してやりたい、塞いで治りが早くなるように、またはこれ以上痛まないようにしてやりたい、という気持ちから生まれたのであれば、まさにそれは「絆テープ」なのである。
俺は感動してしまった。
そうか、それが、絆なのか、って。
そして、それが昨今、激しくなくなって来てるのやもしれまい?
何故だろう?
なんでやろね。
文明が発達してきたからですか?
資本主義のせいですか?
暮らしが楽になってきたからですか?
人々は便利な暮らしと引き換えに大事な絆を失ってしまったのだろうか。
誰かが痛いよと泣いてても、我の幸福を追い求め、我が良ければ全て良し。
まぁそうゆうエゴイズムは昔からあったとは思うんやが。
どうなんやろね、俺は絆、絆、と人々が言うほど、絆の無さを感じて嫌になってしまう。
だって絆ってのは、言葉にしていうものでも頭で理解していうものでも大切と感じて大事にしようと思うものでもないと思うからね。
愛とか友情とか大事にされてる全部がそうだと思うけど。
大事だよなって思って大事にするんじゃ、本当に大事なわけじゃないからね。
だからそうゆうもんを言葉にしちゃうと、その時点でわかってないやんってことになる。
これは愛だ。
これは友情だ。
これは絆だ。
いやいや、全部偽物だよね。
そんな人々の言葉より、相手の傷を塞いでやりたいなと思う気持ちだけで絆創膏を貼るという、名付けるまでもないその気持ち、「キズナテープ」貼ったるわ(笑)ってそのすべてを馬鹿にしたような気持ち。

僕が言いたいのは、そうゆうことです。
深みがないと。
薄っぺらいものを大事にありがたがるっちゅうのは。
他者の痛みを毎日思い出して同じ地獄にいようと思えてないんちゃうか。
毎日が地獄なら、これが愛だ、友情だ、絆だ、ってゆうてられんからな。
誰か一人(動物も含め)でもこの世で地獄にいる限り、自分も地獄だっていう気持ち。
しがらみ=絆=傷。
他者の地獄を一時でも忘れて暮らしておきながら、何が絆ですか愛ですか友情ですか。
ははは、小さい傷をふさいでくれるキズナテープのほうがよっぽど有り難いですよ。
ははは、また綺麗ごとゆうてもうたけど、まあええや。
なんか書くことくらいでしか時間を潰せないので、とにかくなんか書くしかあらへん。
何でこんな人生って思うかも知れんけど。
それがしがらみで絆で傷なら、まぁしゃあないかな。
どうにもならんやん。

理想と外道

今日はジュード・ロウの映画を見ることができた。
99年の映画「ミュージック・フロム・アナザー・ルーム」をまず観た。

これも理想を描いた映画で素直に映画ってええなと思える映画だった。
ジュード本人がこの役は僕の素とすんげえ近いと思うって言ってる通り、違和感なかった。
イグジステンズ」の役のほうが良いと言っちゃえばアレだけど。
ロウは美男子の割りにはすかした男じゃないようだからすかした役はあんま合ってへんのかもな。

なんか知らんけど、こうゆうシーンに変に萌えっと来るのはなんでなんやろな。
これは「アルフィー」って映画でロウのほうはまだ観てないんやけど、たぶん同じようなシーンがあるはず。
楽しみだ。出来ればシングルファザーの役なんかして欲しかったなぁ。
ないのかな、そうゆう映画。

日本の予告版がすごく良くってyoutubeにないのが至極残念だが。
その予告の最後に、〜ジュードの魔法が、あなたを幸せにする〜
って文字が流れてきて、うっわーほんま幸せにしてもらえたわぁ、ありがとうジュード(´;д;`)
って気持ちには特にはならんかったが、でも、あっ、って思うのは。
ジュードはあの顔で相当天然で純粋で馬鹿な性格かもしれないなって憶測で。
だからこそ、そうゆう人間は確かに人を魔法にかけたかのように幸せにするかもな。
って僕はちょっと思っちゃった。
まあだから昔に「スターリングラード」を見て少しグラッと来たが。
それ以外はこいつの映画も観る気もなかったのに「イグジステンズ」を観てからここまでのめり込んだってのは、やっぱりそうゆうのろまであほでドン臭いキャラがジュードの素で、それが妙に良かったからなんじゃないかって。



で、今日はジュードの二本立て、次に観たのは2000年の異色映画

ファイナル・カット [DVD]

ファイナル・カット [DVD]

です。

いやぁ、おもろかったわ、かなり笑かしてもらえた。
ドキュメントタッチな映画でジュード・ロウの葬儀に集まった友人達にジュードが隠し撮りしていたみんなの相当な外道ぶりな行為や秘密のビデオテープを実際の奥さんである女優のサディ・フロストが見せるという内容で。
ジュード自身の外道ぶりもあるにはあるのだが、もっとあればもっと面白かったと思う。
登場人物が全員実名で演じてるらしい。

こうゆう感じでトイレの中や寝室まで隠し撮りされてそれを集まった夫婦同士で観ながら互いにやんやと騒いだりして、何回「fuckin'」ってゆうねん笑 ってゆう人々が真剣になってるのがまたおもろい。
しかしそんな人間の煩悩と外道ぶりを散々見せてもらって心が洗われた気分なのは何故か?
そこはまぁ観てもらえたらわかるかもしれない。
なんだかんだ人は人に言えないような外道な部分もありゃ人並みに傷つく部分も持ってたりするからかな。
まぁ人間そんなもんやんなってゆうのを魅せてもらってすっきりするってゆうこの気持ち。
逆にやで?えっらい綺麗な映画を観ると、自分の汚さにバツが悪くなったりして落ち込むとかあるでしょう人って。
そうゆうもんなんやろなって思いますね、なんでも。
だから綺麗なことばっかゆうて、自分だけ気持ちよくなってるのはアホ、って最近気付いてきたかな。
ってこれが綺麗ごと?難しいなあ。
恥もプライドも打ち捨ててもっともっと外道振りを見せられるような人間になりたいよね、目指すは深い外道だよ人間なんちゅたかて。

召喚されたし

ごっつい悪夢見たわ。
今、パン喰うてる。
起きて。
どんな夢かとゆうとほぼ憶えてないんやけど。
こんな夢やってん。

僕は明らかに、監禁されてます。
くっらぁいせっまぁい感じの湿っ気た部屋で。
僕以外に一人だけ人がいる。
それは誰かとゆうと

永瀬正敏だった。(禿げてないほう)
こいつは全人類を脅かす悪徳組織の一員であったのである。
そしてこいつは僕の命を奪おうとしている、今にも。
って僕、永瀬がなんか作業してる隣で寝てて天井見上げたら、おわわわわんっ。
でっかい大砲みたいな鉛の鉄の玉みたいなのが僕の顔目掛けて降って来てるではないか。
僕はぎょえーと目をひん剥いて飛び出させて、やっぱ嫌、とか思って身体をひるがえして逃げた。
そしてコノヤロウとばかりに永瀬の頭を代わりにその大砲の真下に置いて上に座布団を置いた。
多分、顔が( *・з・).*;'.、ブッつぶれるところを見たくなかったからやろね、夢の中の俺しっかりしてるやんけ。
しかし一瞬で、あっ、やっぱダメだと思った僕は永瀬を引っ張って助けてやった。
自分の顔がつぶれるのも人の顔がつぶれるのもやはり僕は嫌だったらしい。
どないやねん。
で、助けたもののこいつは僕を殺すつもり、ってことは逃げるしかない。
逃げた。どうにか部屋の外に逃げられたようだ。
しかしおっそろしいことに道を歩いている人間すべてがその悪の巨大組織の人間である可能性は非常に高い。
実際追われる。
ゲーム世界のように戦う。蹴散らす。逃げる。
で、ぜーぜーはーはーと言いながら僕は助けてもらおうと警察署に飛び込んだわけ。
しかしわかってた。その組織は警察内部とも繋がってるんだよね。
でも全員でもないという話を聞いてるから、もしかしたらここのポリスは知らんかも。
一縷の望みを託し、息を切らして入り込み、僕に気づいてない様子のポリコーたちにそれとなく僕がお前らの探してるあいつかもだぜっていう感じの言葉をそれとなく発して伺った瞬間。
全員の顔が一瞬にして変わったので、そそくさと外へ走り出た。
実に恐怖で、殺される身というのは、僕はとにかく逃げる。
で、これまで何人か中ボスと戦って逃げ通せて来たのだが。
道端で突如現れた次の中ボス、それが何故か

僕の愛するDoseone(ドーズワン)で。
doseoneが僕を殺そうと襲い掛かってきた。
僕は、ひえーとその強そうな相手に尻込みながらも闘うために。
いわゆるポケモンになってて召喚キャラを出しました。そいつは。

こうゆうやつで、ゴマゾウとゆうらしい。

で、うわっまた弱そうな召喚キャラが出たなぁ、と思ってたらDOSEONEが出した召喚キャラは。

ファイアードラゴンっていうこんなやつで、うわっ、絶対負けるやんけ、これ、あほか、と思ってたら。
まんまと一発の攻撃でやられてしまってゴマゾウが死んだ。
??(゚ω゚; )カ¨ーンってなって、もう逃げる、っつって僕はとにかく死んだゴマゾウをほったらかしにして走って逃げた。
死ぬ思いで逃げ回った。
で、そのあともすんごくおっとろしい事が起きて、慄いていると。

こんなやつがどかどかと走り回ってうるさくって

騒いでくれた御陰で目を覚ますことが出来ました、と。
いっやあー感謝ですよよねェうちのみちた君にはぁ。
まぁ起こしてくれた御陰でそのおっとろしいことが何か全然思いだせないんですけどね。
くにょろろろん。