終わらない物語

今日もジュード・ロウの顔を見るのもしんどい。
でもせっかくだから写真くらいは貼ってあげよう。

男前のおとこまいの写真を貼ってあげました。
ジュード・ロウは最近役柄で15kg太ったらしいですよ。
すごいですよね、役者ってのは。
命張っています。
だって急激に15kg太ったり痩せたりってのは命に関わることでもあるでしょうからね。
だから僕はできるだけ映画を見て糞つまらなくても、あんまりけなしたくはしたくないのです。
一生懸命にたくさんの人たちによって出来上がった作品を自分の趣に合わなかったからと言ってけなすなんて嫌だからなのです。

でもジュードの「ショッピング」って言うデビュー作と「クロコダイルの涙」って映画はほんま糞つまらんかったなぁ。
なぁんて、言ったらジュードが泣くので僕は言いませんですけど、まぁ心の隅で想ってます。
僕が言いたいのは、理想を描いた作品は別にどうであってもいいんですよ。
でもそうじゃない作品、いわゆるアンハッピーエンド的な作品。
これに関しては僕はとっても厳しいのです。
もっとできるやろ、おい、おい、もっともっともっと、悲惨にな、やれるやろ。
何甘くしとんねん、こら、もっと痛みを、もっと苦しみを、もっと悲しみを、もっと絶望を描けないなら創っちゃダメだ。
ちょっと悲しいな、ちょっとこれ苦しいかな、なんていう作品は要らんねん、はっきしゆうて。
あと、ただ見終わった後にどよーんとする映画とかな。
せっかくのオトコマイが台無しなんです、いくらどれほど美しい男でも。
作品がダメならダメなんです。

これはゆうと、人生がダメならその人間はダメなんだと受け取られるかも解りませんが。
どうなんでしょうか?
どう思われますか、みなさん。
だめな人生ってそもそもどうゆう人生でしょうか。
実はね、僕らの人生も創作物なんですよ。
なははーんて、てててて、ねー。ってね。
ちょっと言い方を気をつけてくださいね、さっきの。
「実はね、僕らの人生も創作物なんですよ!」
ここね、出来たらテリー伊藤ふうに前に乗り出した形で言ってください。
テレビはもう5年近く見てないのですが。
たぶん極楽トンボの加藤が反笑いの形ヲ取って「え?そうなんですか?笑」って返すと思うんです。
なんでテレビを見ないかって?
鬱が激しくなってテレビが観れなくなってしまったんですよね。
だからこんなに大好きなジュード・ロウの顔を見れる日もなかなかやってこないんです。
映像を見るのがしんどいんですよね。
ですので、こうして駄文を書いて時間潰してるんです。
何故かほかのことをする気力が皆無なのに。
こうして駄文を連ねることは楽しくってできるんですね。
欝でもほんとうにほんとうに楽しいことなら出来たりするんです。
まだ軽い欝のときですけどね。
だからよくわかってきますよ。
自分がどんなことが本当に楽しいかってね。
後は欲望もそうです。
あまりに焼きそばが食いたくって、その食欲が欝のしんどさを超えると。
作りに行くんです。
でも超えないと作れません。
今もとても焼きそばが食いたいのですが。
しんどいので作りに行けません。
なので代わりにこうして言葉を連ねて気を紛らわしています。
独り言を連ねることがチャット部屋では迷惑だったようですので。
僕は戻れなくなってしまいました。
だからこうしてここでたった一人で喋ってます。
外は確か雨の音が聞こえてきますが。
いったい僕の何をなぐさむことができましょう。
僕のような人間は、ひたすらひたすらひたひたすらすら孤独なのですから。
だって、あんまり人に興味が持てないんですよ。
欝ってそうゆう状態になるんです。
どんなに好きな人でも、その人の顔を見るのもしんどければ、その人の発言を読むのもしんどい。
その人の創った音楽を聴くのもしんどい、書いた小説を読むのもしんどい。
悲しい病です。
でもかろうじて、自分の書く文章は読めたりする。
これはつまり、俺はやっぱ俺が一番好きで、俺だけが俺を一番に楽しめさせる。
そうゆうことじゃないでしょうか。
悲しい人間です。
いわゆるナルキッソスのような物語に通じていきます。
まぁナルキッソスは相手が自分だとわかっておらずに水面に映った自分に恋をして死んでった。






↓ダリのナルキッソスは素晴らしいよね。








でも多くのナルシストたちは自分が自分だとわかってるので恋をするのです。
しかし果たしてどうなんでしょう何故これが自分だと証明できるのですか。
もしかしたら自分と思いこんでる他人かもしれないのに?
そう思うと自分という存在が面白くなってきます。
僕は自分を生きてるわけではなく、誰かを演じて生きてるだけかもしれない。
ここで今一度思い出してください。
「自分ってのはね!実は誰かを演じて生きてるだけなんですよ!」
ってテリー伊藤並みに前屈みになって机にひじをついた形で言ってください。
そう思うと、まるで役者になったかのように、しっかりこの役を演じなくちゃだなぁ。
なんて思うわけですよね。
だってかんあげてみてくだしあ、すみません、缶上げてみてください。
違う、缶上げてみてください、考えてみてください。
いい太古と忘れました、言いたいこと忘れました。
ええっと・・・なんやったっけ。
だって考えてみてくださいよ、あ、そうそう思い出したわ。
みんな同じような役だと映画が映画にならない。
小説が小説にならない。
みんなこれキャラかぶったぁるやん、糞おもんな。で終わっちゃう。
みんなそれぞれ考え方も違えば生き方も違う価値観もまるで違う。
善悪の判断さえも違ってくる。
食い物の好みも音楽の趣味も何もかもがちゃう。
だから面白いんですよ、この世界は。
だから面白い映画で小説になってるんです。
つまり、この世界を面白くするために僕ら全員違うんです。
誰一人とも解り合えることはありません。
死ぬまで。
どこかが違うからです。
ちょっと僕と君って似てるよねってところがあっても。
どこかは絶対違うんです。
だからゆうと、似てるほど、その違いが気になって腹立つことがあるわけです。
悲しくなることがあるわけです。
「みんなちがって、みんないい」金子みすゞの詩ですね。
って悟りの極致ともいえる気持ちにはなかなか人はなれません。
だから争って喧嘩して憎みあって怨みあって哀しみあって見下しあってます毎日。
蔑み合ってます、互いに。
殺し合ってます、何処かで。
地獄がなくなりません、誰かの地獄が。
そうゆう物語をいったい誰が創ってるんでしょうね。
完結してないので、まだ。
創ってる最中かもしれません。
創り上げている途中の中途です。
君は、どうゆう物語にしたい?
君はこの物語の一役者だ。
役者が物語を書けるかどうかわからない。
でも書けないのかどうかも、わからない。
もし僕ら全員が一緒に創ってゆける物語なら。
どうゆう物語を望むんだろう、この世界に。
どういった展開。
どういった未来。
自分が死んでも物語は続く。
終わらせないために。
自分が死んだところで終わらせないために。
自分が死んだ続きを思い浮かべて書いておく。
それは僕がどこまでもこの物語に関わっていたいために。
みんなも同じだけこの物語に関わっている。
みんな同じだけ重要な役で、誰一人欠けても面白くない。
誰一人、その役を放り投げることは出来ない。
悪役がいないとヒーロー的な役は活かされてこないね。
無頼漢の役が活きて来るのは真面目に職をこなしてる役があるからこそだね。
みんなその役を一生懸命最後まで演じて死んでいくんだけどさ。
この壮大な物語を超える物語って、ないんやろけど。
僕が明日死んでしまう役としよう。
僕が終わっても終わらない物語がここにある。
そうしよう。
僕は次の白紙のページにペンを走らせた。